情緒よりも主観。

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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想

思えば劇場版VEとの付き合いはマジLOVEキングダムのころから始まっていた。映画館に行くたびに聞く子安により「名前だけは完全に理解した」顔をしていた。

その1年ちょっと後に2日で再放送録画駆け抜けて映画館で号泣して「やっとわかった……」になった。

 

正直なところヴァイオレット・エヴァーガーデンという「人物像」については、劇場版以前のテレビアニメで描き切られていたと思う。最初「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」としては蛇足ではないか?とさえ思っていたのだが、鑑賞後ジワジワ「わかって」きた。どうやらヴァイオレットという人間を描くには、ギルベルトを描き切る必要があったのだ。そしてギルベルトを描くということは、京都アニメーションの自画像を描くということでもあると思った。

 

劇場版でのギルベルトは、戦争を経て心身を損耗した姿が描かれる。ヴァイオレット目線の正直な客なので彼に対して「しっかりしろ!!!」という感情が結構あったが、見終わってみれば「しっかりできるようになってよかった……」という安堵の気持ちが残った。

テレビアニメでのヴァイオレットは周りに面倒を見てくれる人や心配してくれる人がいたし、自ら周りと関わっていこうという姿勢も元々あったが、ギルベルトの場合は環境がそもそも……だし、生真面目な性格と境遇がハイブリッドして自ら繋がりを絶っていってしまうまさにIfヴァイオレットなのだった。というか元々自分の性格を客観視できていた分ヴァイオレットより重症まである。

ギルベルトの「生き残ってしまった」という感覚はサバイバーズギルトであり、いまの京アニ社員の気持ちでもあると思った。FE風花雪月で蒼月ルートやってたときにもサバイバーズギルトについて調べたんですが、「生き残ってしまった」という罪悪感は自分を許すまで続くらしい。

ギルベルトがヴァイオレットを求めることができたのは、作中の出来事を通して自分の罪の意識と向き合えたから。「いま隣にいる人と自分を大切にすること」彼らのその姿を描き切ることで、京都アニメーションはひとつのけじめをつけたのではないか。

 

そういうメタ的な重なりを含めてとても素敵な映画だと思いました。お時間ある方はネトフリでいろいろ見てから劇場に行きましょう。