情緒よりも主観。

うたプリやアニメや映画について、思ったことをいろいろ書くオタクブログです。

ヱヴァンゲリヲン序破Q覚書

3/13に突貫で序破Q見たので、シンを見る前にツラツラと。3/14にシンを見るまでに思い出したら増えます。

 

シンジくん、過去父親に捨てられた経験が人格形成に大いに影響している。結果として世界に安心できる居場所がないので、世界に対する期待がまったくない。

それを変えるきっかけになったのが「父親へのコンプレックス」で共感を示してきたミサト。

シンジは世界に関わりたくて仕方がないけど、世界と関わることで発生する摩擦への耐性が異常に低い。だから自分に優しくしてくれた人・共感してくれた人・話を聞いてくれた人に対して超速で依存し、その度に手酷く裏切られたように感じてしまう(今後ずっとそう)

シンジは父親に「乗れ」と言われたときミサトに縋るように目線をやる。でもミサトがシンジに対して担う役割は「保護者」ではなく「上司」なのだ。ミサトは共感と自身の責任をきちんと割り切って責任を通すので「乗れ」と言う。そこでシンジのミサトの評価は「信じられないけど信じたい人」に定まったのではないか。

トウジは「シンジの選択によって生まれた被害者」として初めて現れた人物で、シンジを傷つける=罰を与える役割を持っている。シンジは自身の善なる行為が「罪」とされることを理不尽だと思い続けながらエヴァに乗り続ける。トウジとはその後和解に至り、シンジもトウジを傷つけることで「友人」としての関係を構築した。これがシンジの人間関係成功体験として築かれた第一層かな、と思う。しかし第一層に過ぎない。シンジを根本的に変えるには至らない。

エヴァに乗るしか他者と繋がっていられない」と言うレイに対して、「そんな悲しいことを言うな」というのはシンジくんの結構大きな変化だと思ったんだけどな。

アスカは「エヴァにしか居場所がない」と断言する少女。尖った言動を続けるが、シンジ・レイと衝突しながらもいい距離感を形成してく。自分の感情をミサトに話すことができるようになったアスカはひとり「大人」になっていく。

ミサトとリツコが話したヤマアラシのジレンマと、カヲルのピアノの反復練習の話は同じ話なんだよな。シンジは「人付き合い」の反復練習が足りない。成功体験はトウジ・ケンスケのケースのみである。そうであるばかりに、またしても寄り添ってくれた人=カヲルに依存して適切な距離感を見失ってしまう。

シンジの世界は狭い。自分の居場所のなさゆえに、「居場所たりうる人」の存在に気づいた瞬間盲信してしまうほどに。そして「居場所たりうる人」が自分を傷つけたとき、一転攻撃的な態度を取り、自分の選んだ行動の原因をその人にしてしまう。

エヴァで「大人になる」ということは、自分の行為で発生した責任は自分で取るということなのかな。シンジは選択そのものからは逃げていないが、責任からは逃げ続けている、だれかのせいにすることで。

 

3/14シン見る前

ミサトがシンジをセントラルドグマに連れていって命懸けで戦ってる覚悟を共有するシーンとか、ミサトがシンジへの情を捨てきれないところとか、シンジがミサトのことを信じたがっているのとかが結構好きなんだよね。

一晩経ってもシンジからレイへの感情がよくわからないんだよな。

『花束みたいな恋をした』感想

あらすじ

明大前駅で出会ったサブカル男女(大学生→社会人)の恋模様を軽妙(オタク的レトリックとも言う)なモノローグを交えて描く。あとは公式サイトを見てください。

 

以下、オタク自認があるアラサーOLのネタバレあり感想

(箇条書き時系列適当でいい?いいよー!)

・わたしはフラグが立った男女であれば大体推してしまうチョロ男女カプ厨なのですが、序盤で互いの趣味を語り合い楽しそうにしているふたりを見て「はよくっつけ!!!」と念じていた(別れそうだな、とは思ってた)

・ボロアパートで髪乾かすシーン、推しカプでパロりたいシチュランキング上位に食い込んできた。

・「こういうコミュニケーションはしたいほうです」って教えてくれる絹と付き合いたいな、になった。

・『宝石の国』泣きどころあったか?(厄介オタク)

・就活は……就活はしろ……! 生命線の確保のために……と思ってたら普通にその後回収された(あたりまえ体操

・生活苦、人を変えるよな、よくも悪しくも。わかるよ(冨岡義勇)

・絹と共にいたいから就活をして、仕事に打ち込むうちに娯楽を楽しむ心の余裕を失っていく麦=趣味で繋がった絹との関係が次第に閉じていく麦。趣味で繋がる機会がある者としては「他人事じゃない……!」になった。大事にしよう、お友だちとフォロワーのこと……。

・「もうパズドラしかできない」仕事休んで精神科行け。

・飼い猫が泣いてるやつは演出過剰だと思った。

・ふたりの靴が変わっていく演出はすごく好きだった。

・終電までに告白しよう/参列した結婚式の1日が終わるまでに別れよう、の対比美しすぎるな〜!

・最後のファミレスシーンで別れる→別れたくない→プロポーズまで見せてから、「これから付き合うであろう同じ趣味の男女」を登場させて、もうふたりが「同じものが好きだった、それだけで世界がふたりだけのものみたいに楽しかった」ころには戻れないと悟るシーンつらいけど、マジでめちゃくちゃ美しいんだよな。みんなここまで見届けてくれよな。

・これはよくもあしくも「カップルの背中を押す映画」だと思った。今後の関係に悩んでるカップルがいたとして、その背中を押したとき、別れを選ぶか関係修復を選ぶかは見たカップルに寄ると思う……。

・まあモラトリアム期の恋人に思い入れがある人の精神は平等に破壊されるのではないだろうか。

・ふたりが泣き出したあたりでわたしも泣きました、推せる男女がくっつかないのはつらいことなので。

・タイトルについてずっと考えてた、いま気づいた。絹「男の子は女の子から花の名前を聞くと、その花を見るたびに女の子のことを思い出すようになる」というセリフ。これふたりにとってはもうモノとしての花に限ったことではなく、共に過ごしたすべての時間=思い出が"花"で、だから「花束みたいな恋」なんだ。

BAR真鎖夜さんに行ってきました2020下半期

オタクの妄想を至高の一杯にしてくれるお店「BAR真鎖夜」さんにお邪魔してイメージカクテルを作っていただきました。

 

この1週間ファフナー公開されたり幻水のオケコン行ったりでだれで作ってもらうか揺らぎましたが……2020年下半期もっとも狂った(ことになるであろう)SwShのdnsnのイメージカクテルを作っていただきました!

いろいろ思いの丈はありますがとにかく完成品を見ていただきたいので見せます。

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い、色がもうdndとsnaさんじゃん!!!

イメージカクテルの解釈の汲み方が本当にすごい。毎度言ってる気がするがすごい。色もそうだけど、お酒の名前やフレーバーでも表現してくれる……! 以下覚えてる範囲でのマサヤさんからの説明。

上層(紫)とマドラー(金)がダンデのイメージ。「無敵」「戦闘狂(※個人の感想です)」の表現として、ベースにソミュール(オレンジのリキュールだけど甘さは控えめで主張の強い風味がある)、炭酸。体積が多めなのは圧倒的な存在感から。飲んでみたら味に厚みがあってdndだ……とすごく納得。

下層(緑)はsnaさんのイメージ。「優しいギャル(※個人感想)」の表現として華やかな緑になるように。博士になったけど、研究者としてまだまだ探求を続けて高みを目指すというところから、赤くなることを目指す青リンゴのシロップをチョイス。華やかだけど落ち着いた知的な味がしました!(主観!!!)

混ぜたときとかdnsn的なところ。dndは「今日はなに?」とsnaさんが言ってしまうくらい研究所に通ってる(はずな)ので「繋がっていたい」とか、「dndはsnaさんを優しい目で見ている気がする」とか書いたら、『完全な愛』を意味するパルフェ・タムールが使われていました、やっぱりdndがsnaさんのこと好きだよね!(主観!!!)またソミュールとブルーキュラソーは風味は違うものの共にオレンジのリキュールであることから、ふたりの「進路は違っても志を同じくして切磋琢磨するのは昔からずっと変わらない」ところを表現、と言われて感極まる。混ぜるとdnd部分の尖りが取れて優しい味になるのもdnsnを感じてすごくよかった……。

 

今回もとっても楽しかったです! イメージカクテル以外に、おもしろいお酒教えていただいたりとか、わたしのようなバー初心者でも気楽に行ける素敵な推し店です。

幻想水滸伝 25th Anniversary Symphonic Concert -Episode of Jowy- で振り返る自分のプレイ

別の人の解釈を聞いて(文字通り聞いて)、触発された自分語りです。一応演目別にしておきますが詳細なレポはないです、思い出したら随時追加していきます。

 

Episode of Gremio

グレミオにとって、わたし(や坊ちゃん)が考えている以上に坊ちゃんがすべて(という言い方はしたくないけどそうなってしまう)なんだな、と思った。

・逆に坊ちゃんの中でもグレミオの存在って大きくて、それを忘れたことなどないとは思うけど、喪って初めて気づいた大切さでもあるんだろうな……。

グレミオも作中で成長していて、坊ちゃんを守るのは坊ちゃんが見る景色を見たいからだということに気づけてよかった。

グレミオかわいすぎていっそあざといまで来た。なんだその「な・か・な・か・あ・か・な・い・ぞ」は。

 

Episode of Flik

・フリックの核であるオデッサというか、そもそも第一楽章序盤がまるっとオデッサ視点で進むの感謝なんだよな。いやそんなことある? エピソードオブフリックアンドオデッサにすべきでは?

オデッサの「逃げ出してしまいたくなる」は蒼穹のファフナー THE BEYONDを見ているものにはタイムリーだったよ。力を持つ者は、力を持つという理由でそれを行使すべきなのではなく、その目で見たものに向き合うためにある。

・解放軍アジトが割れた後の対処が冷静すぎる、フリック仕事ができすぎる。他の方も仰ってたけど、オデッサが死んでる可能性も考慮した上で行動してたんだよな……カクの町での下りとか、すごく冷静で。だからこそシェサラザートでサンチェスに激昂する姿が印象的なんですよね。

・曲ではなく映像についてですが、グリンヒル潜入メンバーが効率全振りで笑ってしまった(帰り道にガボチャとシドを拾える構成)

・最後にフリックとサンチェスの夜シーン持ってくるのズルすぎるだろうが!!!ズルい……。

 

Episode of Jowy

・回想で始まり回想で終わる編成思いついた人天才ではないか? 回想、やはり幻水2の核となる曲なので思い入れあるしすごくよかった。

・ジョウイだって子供なのに、自分より幼いピリカのために必死で戦ってるのもうつらい、やめろ、無理して大人になんかなるな。

幻想水滸伝の大人って大体冷静というか自分の務めを理解し責任を持って行動しているから、甘い部分って意外とないんだけど、ジョウイの判断が甘く見えるのも彼本人の性格と言うより経験不足から来るものかな、と思い始めている。

ポケモン剣盾発売1周年に寄せて

ポケモンと私

わたしの人生にポケモンって関係ないと思ってたんですよね。アニメは義務教育期間にチラチラ見てたし、GO配信されたときとか1ヶ月だけやったくらい。ゲームに関しては尚更で、同級生たちが「どっち買う?」とワクワクしているのも「2種類出るんだ」で流していたらアラサーになった。だからこのまま一生ゲームのポケモンやらずに終わるんだろうなあ、と思ってた。

そんな人生に転機が訪れたのが2020年。入院の必要があり暇潰しのためニンテンドーSwitchを買った。当時の目的は『FE風花雪月』(といずれ出るうたプリのゲーム)をやるためだったので、ポケモンのポの字も思い浮かばず風花雪月をやった。とはいえゲームには一応終わりがあって、一通り風花雪月を楽しんだらやるゲームがなくなった。

そこでようやくポケモンソード・シールドの存在を思い出した。嘘です、思い出したのは日々既プレイヤーの友人やフォロワーから「絶対お前が好きになるカップリングがある」と勧められていたことです。本当にしょうもない同人女なので、まだ見ぬ推しカプのためにポケモンソードをダウンロードした。これが本当の転機です。

 

実際にやってみて

最初のうちは「背景すげーな金かかっとる」とか「あっアニメで見たことあるポケモンだ!」みたいな感じで、割と「ハマらないようにしよう……」という心理的予防線を張っていた気がする。

でもダンデからメッソンもらったり、ホップのウールー自慢に対抗してウールー捕まえたり、その他バトルしたりゲットしたりキャンプしたりしてたら、いつのまにか普通に楽しんでいましたね。

負かしたジムリーダーたちが「お前すごいな!」と素直に褒めてくれるのも嬉しい。だれかひとりくらい「こんなガキに負けるなんて」とか言ってくるかと思ったのに、なんてストイックな大人たちが子供に優しい世界なんだ……!と感動した。

チャンピオンが「正しいトレーナーの概念」のような人で、その人をいざ倒す!となった段でめちゃくちゃ怖くなった。主人公=わたしはこの人を超える器などないが?という重圧を感じた。それと単純にバトル強すぎて泣きながら戦ったことが印象に残ってます! ダンデと2度と戦いたくない、嘘、スタートーナメントしまくってる。

1番印象的なのは、遊び方に正解がないというところかな。わたしはキャンプでカレー作ったり着せ替えして遊んたりがめちゃくちゃ楽しいけど、対人戦にしか興味ない勢とかおしゃれボール勢とか知らない勢力がめちゃおる(らしい)。人それぞれにポケモンの楽しみ方があるの、とにかくすごい、としか言えないな。

 

まとめ

「ゲームのポケモンやる」って実績解除できた気もするし、2020年下半期の推しカプも観測したしでポケモンソードめちゃくちゃ楽しかったです! 発売1周年おめでとうございます!

 

おまけ

だれに見せても爆笑される殿堂入りメンバー。

羅小黒戦記吹替版の感想

※吹替版しか見てないです。

※用語間違ってたらすみません。

 

たぶんこれ何百回も言われてることだと思うけど、ムゲンとフーシーがシャオヘイにもたらしたものが全然違って対比になってるのめちゃくちゃいいな〜と思いました。

フーシーはシャオヘイを保護して食事と寝床を「与えた」けど、それはフーシーが万全でないとあっという間に失われてしまうものなんだよね。だからシャオヘイも身一つで放り出されたらなにもできずにムゲンに捕まってしまった。

対してムゲンはシャオヘイになにかを「与える」のではなく、金属を操る力の使い方を「教える」んですよね。シャオヘイ自身が金属を操れるようになって、様々なことをムゲンに頼らずできるようになっていく。これってひとりでも生きられる力=「自立」だよな〜、じゃあフーシーは「依存」か、などと感心してしまった。

原語版見てないなりに、吹替版で副題ついたことに結構警戒心があったんですが、シャオヘイがふたりの大人と出会って成長した結果を表すものだと思えば納得できるな。

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想

思えば劇場版VEとの付き合いはマジLOVEキングダムのころから始まっていた。映画館に行くたびに聞く子安により「名前だけは完全に理解した」顔をしていた。

その1年ちょっと後に2日で再放送録画駆け抜けて映画館で号泣して「やっとわかった……」になった。

 

正直なところヴァイオレット・エヴァーガーデンという「人物像」については、劇場版以前のテレビアニメで描き切られていたと思う。最初「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」としては蛇足ではないか?とさえ思っていたのだが、鑑賞後ジワジワ「わかって」きた。どうやらヴァイオレットという人間を描くには、ギルベルトを描き切る必要があったのだ。そしてギルベルトを描くということは、京都アニメーションの自画像を描くということでもあると思った。

 

劇場版でのギルベルトは、戦争を経て心身を損耗した姿が描かれる。ヴァイオレット目線の正直な客なので彼に対して「しっかりしろ!!!」という感情が結構あったが、見終わってみれば「しっかりできるようになってよかった……」という安堵の気持ちが残った。

テレビアニメでのヴァイオレットは周りに面倒を見てくれる人や心配してくれる人がいたし、自ら周りと関わっていこうという姿勢も元々あったが、ギルベルトの場合は環境がそもそも……だし、生真面目な性格と境遇がハイブリッドして自ら繋がりを絶っていってしまうまさにIfヴァイオレットなのだった。というか元々自分の性格を客観視できていた分ヴァイオレットより重症まである。

ギルベルトの「生き残ってしまった」という感覚はサバイバーズギルトであり、いまの京アニ社員の気持ちでもあると思った。FE風花雪月で蒼月ルートやってたときにもサバイバーズギルトについて調べたんですが、「生き残ってしまった」という罪悪感は自分を許すまで続くらしい。

ギルベルトがヴァイオレットを求めることができたのは、作中の出来事を通して自分の罪の意識と向き合えたから。「いま隣にいる人と自分を大切にすること」彼らのその姿を描き切ることで、京都アニメーションはひとつのけじめをつけたのではないか。

 

そういうメタ的な重なりを含めてとても素敵な映画だと思いました。お時間ある方はネトフリでいろいろ見てから劇場に行きましょう。