情緒よりも主観。

うたプリやアニメや映画について、思ったことをいろいろ書くオタクブログです。

『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』は男性の試行錯誤が結実した男性応援アニメだと思う

※『KING OF PRISM』全編のネタバレを含みます。

 

 

スタッフとキャラクターを重ねる話とか、ジェンダー(キンプリの場合はセックスだと思うけど)の話するのあんまり好きじゃないんだけど、シャインとかいうクソ男のせいで「速水ヒロのショーが暴力」って言われたのが悲しすぎて書きます、持論を。前提は「速水ヒロのショーは暴力ではない」です。

 

男体を持つ人間はどうあるべきか

『KING OF PRISM』は男体を持つ人間がどうあるべきかというテーマも背負いつつあるのでは、と思った。家を継ぐこと(ユキ・カケル・ミナト)や、自身の嗜好(レオ・ルヰ)、「男は泣くな」(ユウ)、女性との接し方(シン・タイガ)のような、男性が背負う社会的制約の話が多かったからそう感じる。

シャインのショーもそのひとつだと思っていて、セプテントリオンのショーと併せて、男体特有の暴力性とどう付き合うか、という話だったと思う。

 

男性的暴力性へのアプローチ 〜大和アレクサンダーとシャイン〜

ところで、シャインのショーが怖がられたように、怖がられたスタァがいますよね。大和アレクサンダーです。キンプラにおけるアレクのショーはファンへの被害こそなかったものの、会場を破壊する暴力行為がありました。セプテントリオンやカヅキ、プリワンに来たファンも彼のショーが持つ暴力性を危惧していました。実際にアレクが披露したショーは、タイガとのバトルショー(いわゆるプロレス)となり、力のぶつかり合いをエンタメとして昇華させます。

アレクのショーがエンタメとして機能できたのは、タイガとの(暗黙になってしまうが)信頼関係あってこそ。力が暴力に転じるのは、対象との信頼関係がないからですよね。シャインのショーが暴力的に見えるのは彼のショーが一方的な愛の押し付けで、そこにあるのは信頼関係ではなく、「君も好きなんだろう。僕のことが」という相手への甘えです。

 

男性性との付き合い方

アレクのショーの前に、西園寺レオのショーがありました。レオは男体を持つものの、一般的に女性的とされるものが好き。しかしそれが原因でいじめに遭い、"男らしさ"を追求して迷走することに。そんなレオのショーの主要なメッセージは「自分らしさの追求」です。

レオの『自分らしさ』は「かわいいものが好き」ですが、『自分らしさ』が男性的なものであることも肯定しています。準備したもののミスコンに出なかったアレクの描写も、レオのショーのテーマを引き立て、その後の自分のショーの布石にもなる。

 

最後に

プリズムキングカップのヒロのショーが暴力だったか、という話に戻りますが、やっぱりわたしはそうは思いません。彼の誇りにファンが応じようとしたら、土下座という形になったのではないかな……元々カヅキのショーで民主主義が成立した上で生まれた王だし……。仁のくっ殺を強制土下座とするなら、あれで彼の思考がパラダイムシフト起こしたような気はするけど。

ついでにプリズムリングのことを。カケル祖父やミナト祖父のような、倫理観が昭和で止まった人間をそもそも描写しないという手もあったと思うんですよ。あえて描いた上で、娘(カケルの母親)に「ああはなるな」と言わせたり、妻(ミナト祖母)に怒られたりさせたというのは、プリズムリング(女性を守り支え合うことを誓う)に繋がる結構大事な話だったからなのかな、と思います。

スッスッスはかなり男性と男体に真剣に向き合っていた話なので、イケメンアニメ風な見た目に騙されず(?)男の人ほど見てみてほしいですね。そして感想を聞かせてください。