情緒よりも主観。

うたプリやアニメや映画について、思ったことをいろいろ書くオタクブログです。

『ボヘミアンラプソディー』で描かれる「語り直し」がすごい

バーフバリ観に行ったときに予告を見ました。流れてくる曲全部知ってるやつだけど歌手を知らない。同行者と話してて「あっこれがクイーンさんですか!?」と驚くくらいクイーンのこと全然知らない状態で観に行った、2018年に。

結果「後半30分ずっとズビズビして終わった後目を腫らしながらビールを飲む」っていう最高のムーブかます感じで最高の夜を過ごせました。

 

OPでチラ見せされるライブエイド→曲ができる過程→フレディを中心とした人間関係の収束、すべてがクライマックスのライブエイドに至る道筋になっている。

この「なっている」は「見えている」と言い換えてもいいんじゃないかな。わたしたちはフレディ(というかクイーン)の人生を知ることで、曲に対して生み出された時点とは違う意味を見出す。彼ら自身の思いとは別に、です。伝記物なのですべてが事実ではありませんし、フレディはもう亡くなっているので、本当にどういう気持ちでライブエイドに臨んだのかは誰にもわかりせん。

 

彼らより後の時代を生きるわたしたちはだれかが語った姿しか知ることができません。本当は表に出ていないこととかあったのかもしれないけれど、この映画で語られたフレディの姿にわたしはとても感情移入し、勇気をもらいました。「この曲を歌ったとき、彼はこういう気持ちだったのかな」というのは理想の押し付けでもありますが、「フレディ・マーキュリー、そしてクイーンの"伝記"」としての役割を果たしたからこそ希望を持って観ることができたように思います。