情緒よりも主観。

うたプリやアニメや映画について、思ったことをいろいろ書くオタクブログです。

2022年11月17日の考え事

最近読んだフロム『愛するということ』が、去年読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』や最近観た『すずめの戸締まり』と繋がった気がするのでなんとなく筆を取っています。

※ざっくり感想文なので各タイトルの深い話にはなりません。

 

   *

 

誰かに愛されていると自覚したとき、人は自分を許すことができる。

自分を許すとはどういうことだろう。

わたしは「自分はここにいてもいいんだ」という感覚のことだと思う。

人は大なり小なり疎外感を抱くこともあると思うのだが、愛はその疎外感を解消する。

では自分を許すために誰かの愛を求めるのは依存ということにならないか。

『愛するということ』をめちゃくちゃ圧縮すると「愛は自立した人間が交わすもの」になるが、自立した人間は愛されたいから愛するのではなく、愛するために愛すのだと書いている。

そもそも自立した人間とはなんだ。

わたしは『愛するということ』や『暇と退屈の倫理学』から「自分と向き合った結果、他人とも向き合えるようになった人間」と読み取った。

やや脱線だが、『すずめの戸締まり』、鈴芽の話。

初めて後ろ戸を見たとき「死ぬのは怖くない!」と叫んだ鈴芽が、旅を通して成長し、最終的に「死ぬのは怖い」と考えを変えるのが印象的。

自分と向き合うのはすごくすごく大変。

嫌なところばかりが目につくし、これが自分のいいところだと認めるのも恥じらいが働いて一苦労。

それでも「それが自分」だと認めたとき、人は初めて自立することになるのだろうか。

自立したからといって内面的な欠落は埋まらない。

自分の中の欠落を埋めるために愛を一方的に求めるのではなく、双方向的に補い合うのが愛ではないか。

つまり……ST⭐︎RT OURSってこと!?(終わり)